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尊厳死を迎えるための宣言文
李ソン優 2009-09-22

尊厳死を迎えるための宣言文

 

 

昔から 私はどのように死ぬのか、気になりながらも不安だった。私の意志でこの世に生まれたわけではなかったが、死ぬことくらいは自分の意思をある程度持って迎えたかった。満足な死を迎えることはどのように生きるかということよりも大切に思えた。人生は幸福な死によって完成すると思う。闘病と生に対する執着で周りの家族に精神的な、そして経済的な負担を与えはしないかと心配になる。そこで私は「尊厳死宣言文」をJ大学病院入院前に書き上げ、妻に託した。

 

私は自分の人生にそれなりに満足している。

大事を成したわけではないが、父と母を最大限面倒見ることができた。立派な人格を備えた妻と連れ添うことができたのは私にとって何よりも大きな祝福だった。二人の息子は私の期待以上に成長してくれた。そして何よりも幼い頃から憧れ続け、海よりも深い劣等感を私に抱かせたイチョンジュン先生とお会いできたのは、私の人生最大の希望を叶えてくれるものだった。それ以上の目標は私の中に見当たらなかった。

 

 

しかし人生を完成させる時には危険を顧みず生まれた場所へと戻って行く。全身をぶつけ、道を切り開き、命の危険も顧みずに難関を突破し、故郷へとたどり着く頃にはその姿はもちろん色さえも変わってしまっている。渾身の力を振り絞って辛い産卵を終えることで鮭の人生は完成する。産卵を終えた鮭は息をする力すら残っていない。川底に沈み身体を横たえる鮭は未練を残すことなく静かに死を迎える。そして自分が生んでくれた自然にその身体を捧げることで美しい生を終えていく。成すべき事を終えた鮭が自然の理に従って新で行く姿が私には何よりも崇高に、そして美しく見える。私も人生の目的を果たした今、鮭のように自分の人生を終えていきたい。

 

60回目の誕生日を迎え家族と夕食を囲みながら、私は自ら作成した遺書を家族に手渡した。人はいつか死を迎えるのだから頭がはっきりしている時に私の気持ちと希望を書いてみたのだ。韓国の平均寿命は80歳近くまで伸びたという。私は正直その年齢まで生きたくない。その前に眠るように死を迎えることができればどれほど幸せかと思う。

 

去年の暮れからどこかしら身体に異変が起き、不吉な前兆を感じ取っていた。私は健康状態が急に悪化し病院と現代医療、そして法律に縛られることで私の望まない状況で、人生の最後が決定されたり押し付けられたりする事を事前に防がなければいけないと考えた。充分生きた命であるのに、それを延命する為に病院医療に身を任せるということは、それに伴った避けることができない肉体的、経済的苦痛を受け入れなければいけないということだった。

 

ニュースを見ると現在全国の総合病院の重患者室には人口呼吸器や延命維持装置をとりつけた患者が10万名いるという。こういった死を目前に控えた患者が1年間病院の治療を受けた場合、年間で約3000万ウォン(約300万円)の経費がかかるという。これは信じられない金額である。

 

私は自分が死ぬ方法も事前に決めて家族の同意を求めた。死が近づいたからといって病院に担ぎ込まれたくはない。その前に食事を断ち、水さえも断つことで自ら人生に幕を引きたい。死ぬことひとつにおいても主体的な選択を取りたいと思ったからだ。

 

私は「尊厳死宣言」「蘇生術拒否」といったものがあると知り、ERCP検査のためにJ大学表院に入院する前に「尊厳死宣言文」(同上写真参考)を作成し印鑑証明を添付した。妻にはもしものことが起きた場合、この書類を提出して私が望む通りに最後を迎えさせてくれるようお願いした。

 

この世に生まれて生きることも難しいが、人生を終える時に周りに迷惑をかけず静かに死を迎えることは更に難しいことだ。私は長寿は祝福ではなく、むしろ呪いではないかとさえ思う。人間が長く生きることがどうして祝福なのだろうか。成すべきことを終えれば拍手を受けることができる時にこの世を離れた方が美しい。詩人イヒョンギが「落花」で ”発つべき時がいつかを/はっきりと知って発つ者は/その後姿すら美しいと謳っているではないか。

 

これが私の本音である。私は癌が不治の病だからといって不安と恐怖に恐れおののくことも馬鹿げていると思うが、だからといって無条件で長く生きることに執着することはそれ以上に馬鹿げたことだと考える。この世で65歳は長く生きたほうではないかもしれないが、それでも生きるだけ生きたと言えるのではないか。たとえ残った余生を生きたとしても消耗的で非生産的なものでしかない。この世の全てのエネルギーはこれから生きていく生産的で創造的な若い世代と後孫の為にあるのだ。私は本心から無意味な人為的延命治療を望まない。そして死を迎える日まで私の人生の価値観が変わらないことを決意する。

 


 

尊厳死を迎えるための宣言文(医療指示書)

 

私は自身が病気によって治療不可能かつ死を目前に控えた事態に備えて私の家族、親戚、私の治療を担当する全ての方、あるいは刑事的問題が発生する場合は捜査官と法官に宛てて下記のように希望をお伝えしようと思います。この宣言文は私の精神が安定した状態で作成されたものです。従って私の精神が正常であればこれを破棄することもありますが、撤回するという文書を作成しない限りは有効であります。

 

- 私は病気や事故によって死を目前に控えていなかったとしても、また現代医学で治療することができる可能性があったとしても、死を迎える時間を延長するための一切の延命処置を拒否します。

 

- 私が3日以上、所謂植物人間状態に陥った場合には生命維持のための一切の延命処置(心肺蘇生術ー胸を圧迫、投薬、電気ショックを与える、人工呼吸器を適用するなどの医療施術)、手術(胆嚢除去手術、大腸部分切除術、人工透析など全ての手術)を中断するようお願いします。

 

- しかしその場合、私の苦痛を和らげるための鎮痛処置は最大限行ってください。例え麻薬の副作用によって死が早まることになっても異議はありません。私の理想と希望と患者としての権利を尊重していただくようお願いします。

 

私の宣言文の通りに私が願う事項を忠実に実行して下さる方々へ深い感謝を申し上げます。つきましては私の宣言に従って進行する全ての行為の責任は全て私自身にある事をはっきりと申し上げます。

 

現住所:光州広域市 XXXXXアパートXXXXX号室

住民登録番号:XXXXXーXXXXX

2009年1月20日

氏名:イ ソヌ(印)

*別途添付 印鑑証明書

 


 

蘇生術拒否 英語では''''''''Do Not Resuscitate'''''''' (DNR)

 

病院で結ぶ誓約は末期患者に蘇生術を行わないという「蘇生術拒否」、英語では''''''''Do Not Resuscitate'''''''' (DNR)制度。患者や家族が患者が死を迎える前に延命医療を受けないことに署名すれば、医療陣は患者が臨終段階に入ったときに該当医療行為を行うことなく自然に死を迎えることができる制度。一種の尊厳死である。

 

もちろんこれは現代医学では回復が不可能な末期患者に該当する。

我々の社会でではこのような方法で尊厳死を認める法律がひとつも存在しない。これに対して倫理的論争ももちろんある。しかし国内大学病院では「蘇生術拒否制度」を黙認している。ソウルアサン病院では2001年からDNRを通じた自然死を受け入れている。DNR制度について説明を受けた患者と家族の約85%が誓約に同意した。

 

DNRは国家医療機関である国立癌センター、国立大病院のソウル大病院、ポラメ病院、カトリック宗教財団のカトリック大病院、私立大の延世大病院など相当数の病院で施行されている。法的な裏づけはないものの死を迎える末期患者が接する病院では「尊厳死」を認める形でDNRを導入している。

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